新潟の肖像 1955-70 斎藤應志展【終了しました】
2022年6月2日(木)~7月3日(日)9:00~21:00
月曜日休館 観覧無料
主催:砂丘館
斎藤應志の新潟
大倉宏
斎藤應志は明治生まれの人で、新潟師範学校で学び、生涯新潟市で具象的な油絵を描き続け1981年に亡くなった。教師をしながらの時期、絵に専念するためやめた時期、退職後の時期などがあったらしい。東京の展覧会(白日会展)にも一時出品したようだが、その出品歴はよくわかっていない。発表は生涯を通じほとんどは新潟で、と言ってもよかったようで、それも彼自身も創設にかかわった戦前の県展(民営の油彩画公募展)と、戦後の主にデパートなどでの個展の時代に分かれるようだ。いくつもの意味で「新潟市の画家」と言える人である。
その呼称がさらにぴったりと来るのは、昭和30年(1955年)と言えば9月の新潟大火で町の中心部が大きく焼けてしまった年だが、この年からスケッチ板という絵画用の、それもサムホールサイズ(15.8×22.7cm)の板に、おそらく現地で描いたと思われる油彩画を数多く残し、その大半が新潟市(特に中央区の現在「新潟島」と呼ばれる地区)の風景であることだ。そのすべて(と思われる)絵を画家自身がナンバリングし、タイトル、制作年ほかとともに一冊のノートに書き残していることから、描いた場所までがほぼ特定できる。ナンバーの最後が833。個展などを通してだろう、かなり人手にも渡ったようで、現在仕事場があった家には450枚近くが残されている。その最後は亡くなる10年前の1970年頃の絵で、昭和で言えば30年代から40年代半ばまでの新潟市を、まるで時間眼鏡で覗き見るような感覚を覚えさせる作品群になっている。そのほぼ全部を今回砂丘館ギャラリー(蔵)で展示する。
会期中の6月11日、12日には新潟市で「第45回全国町並みゼミ新潟市大会」が新潟市で開かれる。歴史的な町並みの保存運動や、それを生かしたまちづくりの関係者が全国から集まる催しであり、それに合わせて、というのが当初の本展の発想だったのだけれど、改めて通覧して気づいたことは、当時まだ新潟市に数多く残されていたはずの「町屋」が斎藤の絵にはほとんど描かれていないことだった。高台の洋風建築だった元市営住宅に居を構えた油絵画家・斎藤応志の絵心を刺激した新潟は、昭和初期の建築であるカトリック教会や洋館やビルの街であり、西堀通りや大火後に再開発された地区、それからまだ船の姿が多く見られた川岸や港、工場や郊外の公園、そして砂丘の海岸と夕陽の沈む海などで、彼が油絵という鏡に写すに相応しいと感じた新潟の町がどのようなものであったかを、それらは伝えている。大火で(おそらく)焼けた蔵の絵が何点もあるのを除けば近世の名残を残す新潟は描かれていない。
どういうことかと言えば、それらは斎藤の目に、おそらくあまりにありふれていて、「図」として浮かびあがってはこない町の「地」の風景だったということなのだろう。大きな戦災を受けなかった新潟に昔の町並みが戦後もそっくり残っていたがゆえの現象とも考えられる。画家の感覚は、同時代の多くの新潟に暮らしていた人々の感覚とも共通のものだったのかもしれない。
画家が亡くなって二年後に新潟に転居してきた私は、その約十年後、その「地の風景」がまだ町におどろくほどの量で残っていることに気付き、しきりに写真を撮ったりしはじめたが、そういう間にもそれらは次々と壊されてゆき、4半世紀後の現在、町屋も蔵も、絶滅危惧種のような珍しいものになろうとしている。これほどの「新潟の肖像」を集中して残した画家の心には、変わりゆく町の今を絵に記録するという意識もあったらしいことを思うと、そんな私の経験を、時間をさかのぼって伝えにいきたくなる。